FC2ブログ


8-5

Category: JOY  

 娘が、という言葉に全員目を泳がせて、当然浅井の元に落ち着く。
 いち早く返事をすべきだったのだけれど、母にはさっき散々罵られたため恐怖が先に立ち浅井は声を出すことができなかった。その間に佐々木社長が前に出た。
「浅井さんの、お母様ですか?」
「ええはい、そうです」
 頷きながら肯定する母の言葉を遮るように社長が頭を下げた。
「この度は浅井さんに大変な思いをさせてこんな怪我まで負わせて誠に申し訳ありませんでした。当社の事務所で起こったことであり、加害者も当社の社員であり、全く私の管理不足でした」
 突然の謝罪に全く事情が飲み込めずあっけに取られて浅井の母が浅井に顰めた顔を向ける。社長に一足遅れて浅井もやっと口を開いてなんとか説明しようとした。
「あの、佐々木社長、私の勤める、」
 なんとかそれだけ口にすると母が被せてきた。
「まぁ社長さん?!これはこれは、娘が大変お世話になった上に、こんな不始末までしでかしてお詫びのしようがありません」
「いえ、不始末はこちらですよ!どうぞ頭を上げてください」
「本当に長く勤めさせていただいてると言うのに、こんな恥ずかしい真似を、」
「とんでもないですよ、恥ずかしいと言うならこっちの方がよほど恥ずかしい真似をしてますよ」
 浅井の母も社長も競うように謝るが、話が全く噛み合っていない。
「当社の事務員が浅井さんにこんなとんでもない怪我を負わせて、」
「ですが娘もその事務員さんに刺されても当たり前のことをしたんですから」
「刺されても当たり前?とんでもないです!浅井さんは何もしてないですよ!」
「何もなんて、そのお嬢様の婚約者と何かあったのだと、」
「ないですないですないです!お嬢様と婚約なんかしてないですよ大沢は!」
 田村が挟まる。
「してないらしいんですよ大沢君は」
「大沢君?」
「そこに寝ている彼です。浅井さんと一緒に大怪我しまして、」
「一緒に?では例のお嬢様の婚約者ですか?」
「してないです!婚約もしてないし、つきあってもいない相手です!大沢は!」
「どういうことですか?」
「全くの誤解から何の非もない二人を、うちの事務員が突然刺したんです。そしてお恥ずかしいことに、この事務員というのは私の姪です」
「姪?……社長さんの姪御さんに、刺された?」
「そういうことです」
 佐々木社長がそう断言しても、母は今一納得できない表情で浅井を見た。
「……電話ではそういう説明ではなかったのですが」

「きちんと最初から説明させていただきます」
 佐々木社長が、一度ため息をついてから母を向いてそう言った。
「当社の事務員が、私の姪が、今朝方先輩である浅井さんとそこに寝ている大沢君をカッターで刺しました。姪は警察での取り調べで恋人である大沢君を横取りされたので刺したと申しているらしいです。しかし私もたった今ここに着いて事情を聞いたところなのですが、姪の言ったことが全て嘘だそうです。浅井さんも大沢君も、何の覚えもないし何も知らないらしいです」
 社長が端的に事実を並べたが、最初に聞かされた傷害事件の原因を嘘と断じられても理解が及ばない。
「つまり、どういうことですか?」
「ええ、つまり、私の姪が一方的に誤解して何やら思い込んで思い詰めて、こんなことに」
 やはり理解が及ばない。
「……まるっきり、誤解なんですか?それでは、その彼と娘も一切何の関係もないのですか?」
「いえ!あの!」
 母の問いに大沢が起き上がろうと布団を掴み、しかし腹帯の巻かれた術部を動かせずにやはり顔を上げることもできない。それでもそのまま、息を切らせたまま、訴えた。
「浅井さんと、無関係、じゃないです、自分は、浅井さんと付き合ってます」
 途切れ途切れにそう口にして、その後は続けられずまたベッドに倒れ込む。
「ちょっと無理しないで。起きなくていいから」
 慌てて浅井が傍に寄る。
 大沢もさすがにもう起き上がることもできず、なんとかそのまま声を上げた。
「ただ、それだけで、刺される理由なんか何にもない、ので、浅井さんは何にも悪く、ないです」
「もうしゃべらないで」
 苦しそうなので浅井がそう頼むが、大沢が視線を寄こして頷いて息を整えてから、続けた。
「それでも、こんなことに、なったけど、でも、助かったから」
 そして、わずかに笑った。

「二人とも、生きてるから、それだけで、いいです」


 その言葉の指す意味。
 二人だけにわかる重い存在。
 あの時とは違う。
 大沢が口にしているのは、先輩のことだ。

 浅井もここで目覚めてから、何度も思い出していた。
 あの時とは違う。
 二人とも生きている。
 その奇跡が今回は起きた。

 それだけで充分。
 二人だけがその思いを共有できる。

 自分と同じ気持ちを大沢が口にしてくれたので、浅井は嬉しくて微笑んだ。
 あの時とは違う、それだけで幸せなのだ。

 二人にしかわからない気持ち。
 これだけで充分。

 そのはずだったのに、後ろから低く声が聞こえた。


「……それは、本当にそうですね」


 浅井は驚いて振り向いた。
 母が真っ直ぐ二人を見詰めていた。
 母の声に聞こえたけれど、まさかと思った。しかしそのまさかだった。母の声だった。

 あの母がこんなことを言うなんて。
 まさか。
 浅井はすっかり驚いて母を凝視した。
 そして母は、そんな浅井を依然冷静に見詰めている。

 あれから10年。あの事故から10年で、母の気持ちが変わったのだろうか。
 あの時母は事故を起こした先輩を罵ることしかしなかった。あの時のことを少しでも母は後悔しているのだろうか。もしそうだとしたら。
 そうだとしたら。
 もし母が、先輩に対して一言だけでも悼む気持ちを持ってくれたら。
 それだけで。

 一瞬の間だったけれど浅井はわずかにそんな希望を覚えた。
 ただそれは一瞬だったので、それを確認する前に別の声に遮られた。

「お母さんにそう言っていただけると、こちらとしても本当にありがたいです」
 佐々木社長がまた頭を下げた。
「もちろん、姪はきちんと警察で処罰していただいて、浅井さんも大沢君にもきちんと治療していただいて、なにもかも全てこちらで責任持って対処いたします」
「そうなのですか。それでは、今後は、」
「もちろん、今後も浅井さんには勤めていただくことになってます。いえ、怪我が完治してからですが」
「そうですか」
 そしてまた母が視線を寄こしたので、浅井も頷いた。

「そうなのですか。……突然のことで私も慌てて来ただけで何もわからなかったものですから。社長さんにそう言っていただけると安心ですわ」
 母がそう言って、やっと薄く笑った。

 それでやっと場が和み、いまさらそれぞれを紹介したり名乗ったりして、初めましての挨拶を終えた。
 よく考えると全員繋がりの薄い初対面に近い者ばかりで、挨拶を終えるともう話題も尽きる。
 事件のあらましもほぼ了解して今後のこともほぼ保証され、今のところ何の問題も無く一段落ついた。

「ところで今日はお母さんはこちらにお泊まりですか?ホテルの手配がまだならどこか探させますが?」
 佐々木社長がそう訊くと、母は笑って首を振った。
「いえ、娘もこのように元気ですし帰って家の者にそう報告します。この時間だとまだ遅くなりませんから」
 そして手に持つ荷物を持ち上げた。
「これを、さっきの救急の病室で預かったのよ」
 それを見て浅井が慌てて受け取った。
「私の事務服、あったのね!気付かなかった!ありがとう!」
 淡いブルーのベストと白いブラウス。両方とも肩の部分が裂けて血で汚れているのでどうせ処分しなければならない。
「それとこれ、支払い伝票。自動支払機ではできないって言ってたわ」
「うん。保険証もないから会計で訊いてみる」
「ちょっとお待ち下さい、それはこちらで支払います」
 佐々木社長が横からその紙を引き抜いた。
「全て私が責任を持ちます。第一、こんなことで保険なんか使ってはいけません。事故じゃなく事件ですから」

 事故じゃなく事件。
 その責任の全てを負うと決意している社長。


 例えばこういうことも、あの時にはなかった。
 浅井はたった一人だった。誰も頼れなかった。
 これもあの時とは違う。味方がこんなにもいる。
 私はずいぶん恵まれているのだとつくづく思い、ありがとうございます、と頭を下げた。

「礼を言うところじゃないぞ、浅井さん。当然のことだし慰謝料も請求したらいい」
 田村社長が茶々をいれるが佐々木社長も即答する。
「もちろんその話も今後しっかりさせてもらう」
 浅井は少し笑って、ありがとうございますと繰り返した。



back | menu | next
スポンサーサイト

 


Comments


 管理者にだけ表示を許可する


03  « 2019_04 »  05

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

categories

counter




.