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 そしてなぜか今ハル君の赤い小さなツーシータのスポーツカーで高速に乗っている。
 浜松駅に展示してあるらしいヨシキのピアノとかいうピアノでピアノレッスンを弾くためにエンドレスリピートでピアノレッスンを聴きながら楽譜を見ながら、ハル君の運転する車に乗っている。

 ピアノは若い頃、というか子供の頃から結婚するまで習っていた。
 でも結婚して子供が生まれて家庭を持って、生活が妻と母一色になりじきに孫が生まれ祖母の役割も加わり、その間ピアノの入る余地は全くなかった。だからもう何十年も触れていない。きっと指も全然動かないだろうと思う。
 でも突然の浜松までのドライブデートは嬉しいし、あの綺麗なガラスのピアノを目にすることもとっても楽しみ。
 触れてもいいなんて嘘のような気がする。本当だとしてもきっと大人気で弾いたりできないんじゃないかなと思う。だからそのことにはあまり期待しないまま、久々に楽譜を眺めて若い頃を思い出して、若い頃のようにハル君の横にいることを楽しんでいる。

「雨じゃなきゃそろそろ正面に富士山見えるんだけどな」
 しばらくしてハル君が呟いた。前を見上げると雨でぼんやりする中、緑の茂る山山が重なっている。その向こうは灰色の雨雲しか見えない。
「残念ね。でも雨じゃなかったらハル君どこかに出掛けていて今ここ走ってないでしょ?」
 私がそう言うと、そりゃそうだ、と笑った。

「ピアノレッスン飽きたな。他の曲にしようか」
 そして急にそんなことを言い出す。
「ハル君が弾いてって言ったのよ?」
「もうこれ弾けるだろ?楽譜もあるし。もう一曲リクエスト」
「まだあるの?」
「うん。サービスエリアに入って音源探す」
 と、勝手なことを言ってウィンカーを出した。

 駐車場に車を停めて、スマホのピアノレッスンを止めて、ハル君が何か探し出す。すぐに見つかったらしくスマホをホルダーに戻し、すぐに曲が始まった。今度のはピアノレッスンとはかなり違う、気だるい感じのおしゃれで柔らかい少し悲しげな曲。
「また映画音楽?」
「うん。ベティブルーのテーマ」
「どんな映画?」
「うーん……。いかれた女の悲しい顛末」
「……ピアノレッスンはどんな映画?」
「面倒くさい女が不倫する話」
「……そういう映画が趣味?」
「そうでもないけど。そういう映画がなぜかいいピアノ曲使ってるんだよ」
「そうなの?」
「多分」

 そしてまた浜松に向けてスタート。小雨の中の高速を、今度はスローな優しいピアノを聴きながらのドライブ。見えない富士山を想像しながら、ハル君の横で雨の似合う音に合わせて指を動かした。

 そんなふうに音を覚えようとしている私に、ハル君が気まぐれに話し掛けてくる。
「腹減ったなぁ。駅行く前にウナギ食べに行くか」
「ウナギ?」
「美味い店があるって浜松の理事に聞いたんだよ。隠れた名店らしい」
「どうして急にウナギ?」
「浜松だから」
「なにそれ?」
「嫌い?」
「嫌いじゃないけど」
「じゃ、行くか」
 そう言って、私の返事も聞かずに高速を降りてしまった。本当に勝手だ。下の道に降りて一度スマホで店の場所を確認してその後はまっすぐウナギ店に向かった。

 そして到着したお店は大きな切妻の瓦屋根で土色の壁、小さな日本庭園がありたくさんの小さな葉をつけた夏の楓が小雨の中美しく出迎えてくれている。この佇まいだけでもう絶対美味しいお店に違いない、と勝手なハル君にちょっと感謝した。
 中に入るとお昼前だけど混んでいて少し待った。席に着くと当然ウナギのメニューしかなくハル君は当然のように特上を二つ頼んでいて、運ばれてきたのを見てびっくりした。開いたウナギが二尾重箱からはみ出ている。
「こんなに?ウナギってもういないんじゃなかったの?!」
「貴重だから心して食えよ」
 ハル君が笑ってそう言った。
 二尾も食べちゃうなんて申し訳ないしきっとこんなに食べきれない、と思いつつ箸をつけたら結局食べた。
「こんなに美味しいの初めて食べた!ね!あそこのウナギのなんとかよりずっと多いし美味しい!」
「うん。浜松だからな。よし、ピアノ弾きに行くか」
 余韻に浸る間もなくハル君は席を立った。私はお腹一杯過ぎて立てないのにひどい。
 よれよれと立ってなんとか追いかけ、会計を済ませて外で待っているハル君に私の分の料金を差し出したが断られた。
「いいよ。この後の演奏分で相殺」
「だって高速代だってガソリン代だってハル君が払うじゃない」
「車は一人で乗っても二人で乗っても料金は一緒だよ」
「……そうだけど」
「いくぞ」
 そう言って小雨の中に走り出したので、私も後を追いかけた。

 それから車を出して10分もしないうちに駅に到着して、私はまだ新しくリクエストされた曲を覚えきってなくて、ハル君のスマホをイヤホンで聴きながらハル君の後について行く。どこをどう歩いたかよく分からないけど、いつの間にか買っていたらしくハル君に入場券を渡された。
「新幹線の改札抜けてコンコースに行くらしい」
 そんなことを言われ、ただハル君について行く。そしてただついてきただけで、そこに着いた。通路の一角、小さな催事コーナーに、そのガラスのピアノがあった。
 本当にあった。
 後ろの壁に大きな赤いパネルが貼ってある。ヨシキと言う美人のピアニストの写真。そして白壁と白いステージの上に、透明なピアノ。
 これだけで美しくて涙がでそうになった。

「こんな綺麗なピアノ、本当に触ってもいいの?」
 半分涙声で訊いたのに、ハル君はさっさとピアノの傍に寄り、横の立て看板を読んだ。
「ご自由にって書いてる」
 そして私を振り返った。
「多分ちょうど今到着車両がない隙間の時間なんだよ。誰もいないから今のうちに弾こう」
 そう言って手招きした。

 確かにこれを弾くことが今日の目的なんだけど情緒がないわハル君、と唇を尖らせつつ私もガラスのピアノの傍に寄る。椅子に座る前に鍵盤を一つ押えてみた。
 もしかしたらガラスの透明な美しい姿がそう思わせたのかも知れないけど、普通のピアノに比べて音も透明で澄んでいるように聞こえる。
 さっそく椅子に座り、持ってきた楽譜の紙を台に置き、鍵盤に両手を置いた。
 イメージしていた通りに指を動かしていく。奏でる透明な音が重なり連なり、ずっと聴いていたピアノレッスンの曲になる。でも聴いていた曲よりもやはり透明な音で、しばらく弾くうちにそれに見合ったボリュームが手探りでわかるようになり、それに見合ったテンポに指も動き始めた。車の中で聴いていたピアノレッスンとは少し違う曲調になっている気がする。
 弾き終えて横に立つハル君を見上げてみると、笑って頷いた。
「やっぱり生の音って全然違うな。栞は天才だな」
 そんなはずないのに、でもそう褒められると嬉しい。
 次の曲にするね、とまた鍵盤に指を置いて、今一自信のない新たなリクエストの曲を弾き始めた。

 さっきまで繰り返し聴いていたピアノとは音が違う。少し曇ったような音が太く響く曲だったのに、この透き通った音のせいで張り詰めた悲しい音色に聞こえる。あの気だるいおしゃれな曲が、繊細で壊れやすい悲しく美しい曲に変わった。
 時間が無くてほんの短いパートしか覚えられなかったからすぐに弾き終わってしまい、物語を終えていない半端な気持ちを覚えつつまたハル君を見上げる。
「すごいな。楽譜も無しでここまで弾けるんだな。さっきの動画の爺さんよりずっと上手いよ」
 またそんなバカなことを言う。動画のお爺さんはプロのピアニストなのに。
「全然ダメよ。もっと時間があったらもっと上手に弾けたのに」
 あのままずっと続けていたらもっと上手くなってたかも知れない、と少し思う。でも辞めたのは自分の決断だったから。
 そんな気持ちを振り払うために、ハル君に提案した。

「ね、ハル君。エンターテイナーは覚えてる?」
「スティングか。昨日弾いてみたけど碌に覚えていなかったよ」
「少しは覚えてるのね?じゃ、右手だけ弾いて」
「始めしか弾けないよ」
「それでいい。それからね、ピアノのコツはね、」
「叩くんだろ?」
「あら。覚えてた?」

 一緒にスティングを観に行ってそのテーマ曲をピアノで弾けるか訊かれて、その帰りにハル君の家に寄りお母さんのピアノで探り探り弾いてみた。ハル君にも教えたら見かけによらずタッチがとても弱かったので、とにかく叩くように指導したのだ。
 あの時のように、ハル君が鍵盤を叩き出す。
 このイントロがトムとジェリーみたいで好きだった。逃げていく左手のジェリーを右手のトムが追いかけているような。逃げる私の左手を、ハル君の右手が追ってくる。
「ああ、もうだめ。ここまで」
 そう言って、ハル君が鍵盤から手を離した。その後を、私の右手が繋ぐ。透明な音を重ねてテンポよくリズミカルに指を運ぶ。先の二曲とは音の数が違っててものすごく華やかな曲。踊る指先と跳ねる音が楽しくて笑ってしまう。
 メインの部分を弾き終え、ぱっと鍵盤から両手を離し、笑ったまままた顔を上げた。

 すると突然後ろから盛大な拍手が巻き起こった。ハル君と二人で驚いて振り向くと、いつの間にかたくさんのギャラリーが周囲に詰めかけていた。びっくりしてつい立ち上がると、更に拍手が大きくなった。そうか、新幹線が着いたのね。こんなに大勢の前で弾いているつもりじゃなかったのに。
 恥ずかしくて戸惑ってまたハル君を見上げると、笑っている。どうしたらいいか分からなくて困ってしまい、それでも拍手に対して一度お辞儀をした。
「もう一曲弾いてください!」
 そんな声が聞こえ、反射的に首を振るとハル君が私の腕を掴んだ。
「せっかくなので、お次どうぞ」
 そう誰かに声を掛けて、そこから私を連れ出してくれた。

 駆けるようにして急いでそこから離れて、角を曲がってからやっと歩を緩めた。少し息を切らせて二人で歩いているうちに、笑えてきた。
「あんなに集まってたなんて気付かなかった!」
「ヨシキのピアノだからなぁ」
「すごく綺麗だったわね。音も綺麗だった」
「やっぱりそうか?普通のピアノの音よりクリアな気がしたんだよな」
「うん。きっと。ガラスだから?」
「そうか?」
「メーカーによっても違うと思うけど」
「そうだろうなぁ。それじゃ別のピアノ弾きに行くか」
「え?」
「ヤマハもこの辺にあっただろ?」
「ヤマハ?」
「さっきのはカワイだったから」
「え?ピアノ?」
「ナビにあるよきっと」
「ヤマハピアノ?」
「カワイピアノと弾き比べできるだろ」

 またそんな勝手なこと言って、何故か今度はヤマハに向かうことになった。車に戻りナビを起動してヤマハをリクエストするとすぐに表示され、駐車場から小雨の街に走り出す。
 またピアノを弾く。次はヤマハピアノ。今度はもう少し長く弾きたいとまたベティブルーのテーマを流してもらう。それを聴きながら、指の運びを確かめながら、さっきのピアノの音を思い出していた。透明に響いて消えていくガラスのピアノの音色。でもこの曲には今聴いている曇ったようなこの音の方が似合うのかも?ヤマハのピアノはきっと普通の音だと思うけど。と言うのもずっと弾いていたのはヤマハだったから慣れている音のはず。でもこんな太い音のピアノも弾いてみたい。そんなことを指を動かしながらぽつぽつと話していた。
 するとしばらくじっと聞いていたハル君が、ふと呟いた。
「……遠いな」
 え?
「……浜松出てるな、これ」
「え?どこに向かってるの?」
「ナビの通りなんだけど……」
 じきに案内標識があってその通りに曲がり大きな社屋が目の前に現れる。
「あれじゃない?」
「あれだな。それで、展示館がこっち、」
 表示通りに駐車場に向かうと広くスペースが取ってある。来場者の多い観光スポットみたい。さすがね、と見回しているとハル君が叫んだ。
「あっ!間違った!」
 え?
「雨なのにバイクで来てるヤツが多いと思ったら!」
「なに?」
「ヤマハ発動機に来てしまった」
「え?」
「ピアノじゃなくバイクだ」
「ええ?!」
「遠いと思ったよ」
「どうするの?」
「せっかくだし見ていくか」
「……私あまり興味がないんだけど」
「俺もない」
「えー……」
「案外中にピアノがあるかも知れないし」
「ないでしょ?」

 なかった。
 バイクだらけだ。
 古っぽいのから新しいっぽいのまで、小さいのから大きいのまで、あんな形とかこんな形とか、たくさん並んでいる。シュミレーションゲームもあるけどもちろん乗らない。
 ぐるっと回って、グッズコーナーで立ち止まった。帽子とかバンダナとかタオルとかペンとか。それが全部蛍光イエローで46という番号が記してある。そしてその横に、多分等身大のパネルが立っている。
 くるくるの茶色い巻き毛、青い大きな瞳、高い鼻、大きな口、ひょろっと背が高く小さな顔に長い手足の男の子が、青いレーシングスーツで立っている。
「……ピノキオみたい」
 つい呟くと、ハル君が笑って教えてくれた。
「ロッシだよ。生きる伝説」
「生きる伝説?」
「もう20年、モトGPでトップ張ってる」
「20年?この子そんな年なの?」
「もうすぐ40ぐらい」
「そんなに?!」
「若い頃はもっと可愛かったよ」
「そうでしょうね」
 可愛いピノキオを想像して笑った。

「それじゃ、このバイクもトップなの?」
「日本車はロッシより前からずっと世界のトップだよ」
「そうなの?」
「この前のリザルトは、ホンダ・ヤマハ・スズキの1・2・3だった」
「本当に?すごいじゃない」
「……あ、日本車っていうか、全部浜松の企業だな」
「え?」
「日本車ってより浜松車だな」
「本当?」
「そうだろ?」
「知らない!」

 興味ないなんて言ってたくせに詳しいじゃない、と文句を言うとため息をついた。
「マシンは日本製が表彰台独占したけど、レーサーは全員スペイン人なんだ。スペイン人の知り合いが毎っ回自慢のメッセージ送ってくるから覚えてしまっただけ」
「スペイン人の知り合い?」
「ルカ。会ったことなかったか?」
「ないわね」
「突然現れるからそのうち会うかも知れない。秋の日本GPに来るかも知れないしな」
「……女性?」
「おっさん」
 それを聞いてほっとする。

 ピノキオ君の蛍光イエローが可愛いので、キーホルダーを買ってバッグに付けた。
 ハル君も蛍光イエローのバンダナを買った。これを巻いて畑で倒れていたら派手だから発見されやすいだろうとか縁起でも無いことを言っている。


 展示館を出ると雨が上がっていた。雲間からそろそろ赤くなり始めの太陽が覗く。ずいぶん時間が経っていたみたい。
「帰るか」
「ヤマハピアノは?」
「弾きたい?」
「……もう疲れたかも……」
 ドライブが終わるのが寂しい気もするけれど、実際疲れていた。
「久しぶりに弾いてすごく楽しかったわ。またどこか弾きに連れて行ってね」
「また弾きたいならピアノ買えば?」
 帰ることに同意する意味で言っただけなのに、ハル君は嫌なところに突っ込んでくる。
「だって置くところもないし音が迷惑だし、」
「電子ピアノだったら小さいしボリュームの調節できるしヘッドフォンも使える。果維の家でも買うらしいよ」
「電子ピアノはねぇ……」
 ピアノを辞める頃に電子ピアノが出始めていて、触れてみたけど好きな感じではなかった。
「かなり進化してるよ。昔家にあったピアノよりずっと簡単に綺麗な音が出る」
「そうなの?」
 それじゃ。

「買ったら、ハル君の家に置いてもらえる?」
「なんだそれ?」
「私の部屋狭いの」
「ふーん。考えておく」

 私のピアノをハル君の家に。そしてピアノを弾きに、ハル君の家に通う。
 こんなに楽しいことがある?

「どこに置く?ダイニング?」
「あそこは邪魔だろ。でもなぁ。他の部屋もピアノ用にはできてないからな」
「ハル君の部屋は?」
「あれは寝るだけの部屋だから無理」
「仏間?」
「だめ」
「じゃあどこ?」
「思い付かないなぁ」


 自分で決めたことだからと、自分が望んだことだからと、手放したことに未練を持たないように自分に言い聞かせてきた。最良の決断だったと私は幸せだと言い聞かせてきた。
 それが今こんな年になって、違う形で戻ってきた。
 両方とも。
 ピアノも。ハル君も。
 全然、後悔なんかしなくてよかった。


 そしてまた車に乗り込み、シートベルトを着けながらハル君が訊いてきた。
「栞、晩飯どうする?」
「え?ハル君はどうするの?」
「家で食べなくていいなら餃子食べに行くか」
「え?どうして餃子?」
「浜松だから」
「そうなの?そういうものなの?」
「うん」
 またしても勝手なハル君発動。でも。
「孫が餃子好きなのよ。持って帰ることできるかしら?」
「頼めば出来るだろ」
「そう?星奈喜ぶわ」

 星奈に餃子のお土産を渡してこの黄色のキーホルダーの自慢をしよう。
 そしてまたピアノを始めよう。

 全部星奈のお陰。
 こんな風に巡り巡ってハル君とピアノに再会できたのは、夫と結婚したからこそ生まれてきてくれた孫のお陰だった。
 きっと何もかも必然で、回り道でもなかったのだと思う。


「あ、栞。虹が出てる」
 ハル君がそう呟いたので慌てて顔を上げた。ビルの向こうに刷毛で掃いたように空に向かって太い虹が薄く消えていく。
 白い雲も黒い雨雲も青い空も赤い太陽も見える中で、透き通るように淡い七色。


 今日の空も忘れないでおこう。いつまでも。








  終





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