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 梅雨が明けないせいで今日も雨天。山には行けない。
 元々春先に心臓で倒れたせいで、道場も農作業も控えめにしろと医者に言われている。
 と言うわけで小雨の降る平日の朝にすでに暇を持て余していた。

 昨日は稽古が終わってから山に行き控えめに働いてから家に戻り、掃除機が壊れていたので電器屋に行きお掃除ロボットを買った。それも夕べのうちに遊び尽くしてしまい、家中ピカピカになった挙げ句、飽きた。そして朝からきれいになった室内で暇を持て余しソファに伸びている。

 暇だな。映画でも観に行くか。と考えて、ふと昨日を思い出した。
 電器屋で掃除機を決めて店員に精算カウンターまで持って行ってもらい、適当に新商品の見物でもしてから帰ろうと思っていた。掃除機コーナーを過ぎてデジカメコーナーを曲がり、後は真っ直ぐテレビコーナーに行き着くのだが、その手前に電子ピアノコーナーがあった。
 そこに見覚えのある後ろ姿が佇んでいた。その人がおもむろに右手をピアノに伸ばし、鍵盤をいくつか押えた。そして聞こえてきたのが、エリーゼのために・超初心者の片手三本指によるたどたどしい調べ。
 その拙い音に、なんだか非情に懐かしい気分になった。ピアノに初めて触れる指が紡ぐこの弱い音は、慣れたピアニストにはもう出せない色だ。いいか悪いかというと演奏家としては悪い音なのだろうが、俺も結局何度弾いてもこの程度だ。それでも、楽しいことは楽しいのだし、プロでもないのだからいいだろう。だいたいこのぐらいが一番楽しい時期だしな。
 などと変な笑みを浮かべていると、振り向かれて目が合った。
 なので、超初心者とわかっていたけれど、ピアノを弾くのか訊いてみたりした。
 それからなんとなくそのピアノの前に立ち、指覚えてるのかなと思いつつ、二三弾いてみた。
 久々に弾いたのだが案外覚えているものだ。ピアノは叩けと最初に教わったのでその通りにいささか投げやりに鍵盤を扱う。昔家にあった母のピアノよりも鍵盤が軽くずっと澄んだ音で、その簡単さになぜか少しがっかりした。

 それでも、指が覚えていたことは嬉しかった。
 それまで自分がピアノを弾けるということすら忘れていたというのに、不思議な気すらする。
 自分の奏でる音を自分の耳で聴くということ、自分の音が理想に近付いていく段階を聴覚で知る面白さ、そういうことも忘れていた。

 映画音楽がお好きなのですねとか訊かれたが、それしか教えてもらっていないだけだ。ピアノの音が印象的な映画を一緒に見た後に、家で母のピアノでそれを弾いてもらい、教わった。しかし長続きする質ではなので一曲教わる前に別れてしまう。

 でももし今。今のこの退屈な時間に傍にピアノがあれば。こんな時間に鍵盤を叩いていれば、ずいぶん上達するんじゃないか?

 などと言う思いつきはすぐに却下。だいたいそれ以前に楽譜が読めない。今から独学を始めるスタミナはない。というか多分飽きる。絶対飽きる。もしそれを趣味にできるのならとっくにしていたはずだ。そもそも俺が生まれた時からピアノは家にあったのだ。それでも今の今まで一曲もまともに弾けない。これはもう生まれながらに縁が無いとしか言い様がない。

 ただ少し、ピアノの生音が聞こえる環境は悪くないだろうなとは思った。
 あってもいいのかな。たまに鍵盤叩く程度しか触れないとしても。いやしかしほぼ触れないだろう。絶対触れない。いらないな。


 とやはりピアノ購入を断念したところで、来客を知らせるチャイムが鳴った。
 雨の朝だと栞かなとモニターを見ると、栞だった。

「やっぱり家にいたのね。ね、これアイスクリーム。とってもメロン味でとっても美味しいの」
 玄関先でそう言って笑い小さな袋を渡してきた。とってもメロン味のアイスクリームか。と中を確認しているうちに、栞は家に上がってきた。
「ねぇハル君。夕べ孫に聞いたんだけどね、」
 先を歩きながら栞が振り向く。
「あなた昨日ピアノ弾いたんですって?」
 振り向いたその顔を見て思い出した。

「……栞、ピアノ弾けたよな?」
「……え、うん。だって、」
 栞が立ち止まったので俺も立ち止まった。
「確か、耳コピできたよな?」
「耳コピ?」
「三回ぐらい聴いたら弾けるだろ?」
「それは、曲に依るけど簡単なものだったら、」
「そうだよな。それで昔教えてくれたもんな。多分ピアノレッスンぐらいなら一回聴けば弾けるだろ?」
「ピアノレッスン?」
「うん。ちょっと待て。多分動画がどこかにあるから」
 そう言って俺はどこかに放置したスマホを探しにダイニングに戻った。

 とってもメロン味のアイスをテーブルに置いて、ソファの隅で落ちそうになっているスマホを掴み、検索するとその曲の動画がすぐに出てきた。栞にそれを渡すと、聴いたことがあると笑った。
「どこかで聴いたことがある曲だわ。そうね。何度か聴いたら弾けそう」
「そうか。さすがだな」
「そう?」
 栞が嬉しそうに微笑む。
「でも楽譜がある方がやっぱり楽だわ」
「楽譜か。楽譜も多分どこかにあるだろ」
 と、スマホを返してもらって探すと、すぐに無料の楽譜が出てきた。
「これプリントしたら簡単に弾ける?」
「多分弾ける。それで?昨日みたいに電器屋さんで弾くの?」
「電器屋さん?」
「昨日電器屋さんで弾いてたって孫に聞いたわよ。果維君に弾いてあげたの?」
 ああ。そういえば果維と栞は孫を介して通じていたんだった。
「連日電器屋で弾くのも迷惑だろ」
 そうよね、と栞がまた笑う。
「ピアノに限らず楽器を演奏するって、贅沢なことよね。今さらそんなこと思っちゃうわ」
 そうだな、と応えてから、続けた。

「多分、今しか触れない恐ろしく贅沢なピアノ、展示してるらしいよ」
「え?」
「ヨシキのピアノ。カワイ楽器の」
「ヨシキ?」
「知らないか?」
 ヨシキを検索してすぐに動画を見せた。
「あら!知ってる!バンドの人よね?ピアノの人だった?」
「ドラムも叩くけど、ピアノも弾く。それで、そのピアノ」
「え?あ!ガラスのピアノ?!」
「うん。そのピアノが今展示されてて、勝手に弾いていいらしい」
「え!これ?本当に?!」
「道場の子がそんなこと言ってたよ」
「こんな綺麗なピアノ?」
「うん。それ弾きに行こう」
「え、本当?いいけど、どこで?」
「浜松」
「浜松?!」
「車で1時間ぐらいだろ。何か用事ある?」
「ないけど、」
「じゃ、行こう。着替えてくる」
 そう言って俺は二階に上がった。



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