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 遠藤先生が急病で倒れられて、我が家も一時大騒動だった。
 果維から連絡が来た時は家で私と真姫と結生の三人で、考えてもしょうがないのに心配でそわそわしていた。
 その後果維が戻ってきて美姫も戻ってきて、和臣君が病院に向かったと聞いて、それでも全く心配が晴れずに全員座ることもできず部屋をうろうろしていた。
 そして和臣君から連絡が来て、先生が全く無事だと聞いて、やっと安心してみんなその場で座り込んだ。

「よかったー」
「先生、結構年だもんね」
「やっぱり結構年だったのね」
「でも心疾患は老化が原因とも限らないわよ」
「それでもやっぱりね。若者よりは今後も心配だし」
「そうね。しばらく安静でしょうね」
「今月いっぱいぐらい入院するのかな」
「やっぱ老人だもんね。回復も遅いもんね」
「しばらく道場も休みかな」
「年だもんね」

 なにより健康第一だから、とにかく先生が無事だったことに安心してそれ以外は何も考えなかった。しばらくゆっくりしていただくことが肝要だと思っていた。

 ところが先生は一週間で退院してきて、しかもその当日に和臣君と司法書士の先生を呼び出して我が家の新築予定の土地の名義変更手続きを済ませてしまった。そんなことを焦って進めてしまうなんてと却って心配になったけど、先妻とパール君との事情を聞いてほっとしつつもさすが遠藤先生と笑ってしまった。


 思えば新築話が持ち上がったのは一昨年で一年経ってもぐずぐずしていたというのに、遠藤先生が絡んできてからはあっという間に話が進み、現在建築中。年内には完成予定。
 家屋の設計は終了したものの、インテリアや家具の準備はまだまだこれからで、新居への引っ越しも準備しつつ、マンションの引き払いも準備しつつ、毎日忙しい。中々全員のスケジュールが合うことも難しいのだけれど、珍しくこの日曜日に揃ったので午後からみんなで現場を見に行って家具屋さんや内装屋さんも回って、今家電を見に来ている。
 テレビのサイズや冷蔵庫洗濯機エアコン等を見回り大体のスペックと金額とデザインを確認した後、各々気になるコーナーで足を止めているところ。果維と和臣君はパソコンコーナーで娘たちは美容器コーナー。私は一人でうろうろしながら、電子ピアノの前で立ち止まった。

 先日テレビで駅ピアノというミニ番組を見て、いいなぁと思っていたところだった。駅の通路に設置してあるピアノを通りすがりの旅人や学生が弾いていく様子を定点カメラで映したもの。通行人のたくさん行き交う中で演奏する程なのだからもちろん腕に覚えのある人ばかりだけれど、プロではないのでみな思い思いに楽しげに弾いていた。
 私にとって音楽とは聴くもので、楽器も身近にはなくて学校の音楽の時間に触った物が全てで、あまり興味もなかった。
 でもこの番組で、例えばビジネスマンがスーツを着たままおもむろにピアノの前に座ってジャズを弾いている姿なんかを見て、変な言葉だけど、弾いていいんだ?と思った。聴くだけでなく奏でてもいいんだ、と。プロの音ではなく自分の音を聴いてもいいのだと。自分の指があんな美しい音色を奏でることができたらきっと楽しい。たとえ下手でも、きっと楽しい。

 こんな私でも、こんな年齢だけど、これから始めることって出来るかしら?とほんのり考えた。
 でも番組で見たグランドピアノはハードルが高い。素人にはスタンドピアノでも大げさすぎる。どこか教室で手習いを受ける?そういうのじゃないのよね。そういうのじゃない。気まぐれにちょっと触れたい時に弾きたいだけ。そんな浅い希望にピアノは重くて大きすぎる。やっぱり無理かな、と諦めた。

 そんな理由で諦めていた私の前に、電子ピアノが並んでいる。まるで周りで天使が踊っているように、コーナー一帯がキラキラ輝いて見えた。
 だって電子ピアノだったら。
 こんなにコンパクトでボリュームの調節もできて調律も必要ない。新居じゃなくても今すぐにでも買って帰って今夜から弾けちゃう。
 なんだか夢が叶うようで嬉しくてどきどきして、鍵盤に右手を伸ばした。指三本で覚えている順に白鍵と黒鍵を押していく。小さく音が繋がり、エリーゼのために、になった。
 私の指がベートーベンを奏でた。たった5秒だけど、嬉しくて笑ってしまう。
 買っちゃおうかな。今日買っちゃう?んー、もう少し調べてからの方がいいわよね。だってここの店だけでこんなにメーカーもシリーズも並んでるけどきっと他にもあるし私にぴったりなのがどんなのかわからないし、と顔を上げてキーボードコーナーの端から眺める。

 その時、顔を上げて横を向いた時、斜め後ろに人が立っている気配に気付いた。下手なエリーゼを聴かれていたみたい。

 慌てて振り向くと、そこには遠藤先生が立っていた。

 ベージュのシャツジャケットに中は黒のシャツとブルージーンズ。いつものシンプルな出で立ち。さほどお久しぶりでもない。なにしろ建築現場が先生のお宅のご近所なので最近はお会いする機会が以前よりも多い。
 それでもまさかこんなところで会うなんて思わなかったので驚いた。
 唖然として多分5秒ぐらい見詰め合っていたと思う。

「……ピアノ、弾かれるんですか?」
 5秒経ってからそう訊かれ、私は首を振って苦笑した。
「弾けたらいいなと、思って」
 そう応えると先生も笑った。
「ピアノは叩くらしいですよ」
「叩く?」
 笑みを浮かべたまま先生が横に立った。
「叩けばいいらしいです」
 そう言って、両手の指で確かめるように鍵盤を二つ三つ押した後に、いきなり弾きだした。

 叩く、と言ったとおりに力を込めた両手の指が次々と鍵盤の上を跳ねるように行き来する。
 その強い音が身体全部に響いた。
 しかもこの曲。重い焦燥感に駆られる情熱的な、メロディ。
 知ってる曲。聴いたことがある。知ってる。大昔に聴いた。映画だったと思う。そう、このメロディみたいに重苦しい熱情のストーリー。この強い官能的なピアノのような。思い出したくて胸を押える。

 そのメインのパートを弾き終えて、遠藤先生が顔を上げたので訊いた。
「……映画、音楽ですよね?」
 はい、と先生が頷いた。その横顔を見て、はっと思い出した。

「ピアノレッスン、」
「ピアノレッスンですね?!」

 先生がまた頷いた。

「すごいですね!先生ピアノも弾けるんですね!」
「いや、3曲だけです」
「3曲?」
「しかも全部通しでは弾けないです。ピアノレッスンはここだけ」
「そうなんですか?」
「楽譜も読めないですしね。弾ける人に鍵盤の運指を教わっただけです」
「弾ける人?」
「昔家にピアノがあったので」

 あ。わかった。ピアノ弾ける彼女に教わったということ?ピアノレッスンを一緒に観て、その後家に連れ込んで教えてもらったのかしら?あの不倫映画を一緒に観たの?しかも全部教わる前に別れたということですか?さすがですね遠藤先生。
 とまで想像して楽しかったので、笑って訊いた。

「ステキですねー。先生、他の2曲は?」
「他も短いですよ」
 そう応えて、次に弾いてくれたのは戦場のメリークリスマスのテーマ。さっきと同じく鍵盤を叩くのでよく響いて迫力がある。こんな曲だったかしらと思うほど。でも、これはこれでとってもかっこいい。

「これはわりあい簡単だけどハッタリが効く曲ですね。次のは、ハッタリじゃなく難しい」
 そう言って弾き始めたのは、スティングのテーマ。これもまた叩くけど、使ってる指が多くて確かに難しそう。そして音が多いからすごく豪華!でも今回はところどころ指を間違えて、途中で終わってしまった。
「ああ。覚えてなかったです」
 そう苦笑する先生に、私は胸元で拍手した。

「すごいですね!映画音楽がお好きなんですね?」
「好きというか、これしか弾けないだけです」
「他は弾かないんですか?」
「もうピアノがないので。母親のものだったので、さすがに古くなりましたから」
「そうなんですか」

 そんな話をしていると、後ろから声が聞こえた。

「先生」
「お母さん」

 振り向くと、果維と和臣君と真姫と美姫と結生。つまり全員。

「先生、ピアノ弾けるんですね!」
「お母さんピアノ欲しいの?」
「あんな大きな音で弾くとか」
「上手でした!」
「先生、合宿でもここ何年も弾いてくれなかったじゃないですか」
 和臣君がそんな文句を言うと、先生が笑った。

「男に聴かせるもんじゃないだろ」

 さすがのお応え。

「ピアノも新居のプランに入れる?」
「あら。私の部屋に置くだけでいいもの。今日買えちゃうぐらいよ」
「お母さん買うの?」
 和臣君に訊かれた。
「買うならスペック調べなきゃいけないし、当然新居に持って行くんだろうから他の家具とのバランスも考えなきゃだめだよ」
 そんなことを言われて、急にテンションが下がる。
「……また今度でいいわ」

「あーあ。和臣君のせいでお母さん気落ちしちゃったじゃない。小うるさい継子!」
 美姫がそう言って和臣君を責めた。


 確かにそういえば継子なのよね、小うるさい、と再確認してつい笑った。



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