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8-6

Category: INFINI  

 ああ、どうしよう。
 蹲り項垂れて、立ち上がる気力すら生まれてこない。このまま床にめり込んでしまうんじゃないかと思うほど身体が重い。
 僕はこれからどうしたらいいんだろう。
 頭に何も浮かんでこないまま、壁の向こうから小さな会話は聞こえてきていた。

 ―――女性不信?そのせいで朱鷺を?
 ―――わからない、それがそのせいなのか、
 ―――あんな母親、傷になってないはずがない、

 傷になってないはずがない。
 きっとそう。多分そのせい。こんな心の奥に仕舞い込まれていた恐怖で、僕はきっと、

 と、健介は打ちひしがれて自分の運命を認め始めたところで、父の言葉が聞こえた。


「そうだとして、それがどうだって言うんだ。母親のせいで女性不信だとして、そのせいで朱鷺を追いかけてるとして、なにかまずいのか?」


 なにかまずいのか。

 父さん。

 父さんはそんなこと言うんだ。そんなふうに切り捨てるんだ。


 健介の心の傷を心配した君島の言葉で、却ってその傷の深さもそのきっかけも全てはっきりと認識してしまった。そして自分が傷んでいると自覚した直後に、父にそれを冷たく切り捨てられた。

 ショックで健介はそこに座り込んで床に両手を着いた。



 父は昔からそうだ。
 冷静で冷徹で冷酷だ。
 健介は子供の頃からその冷たさに何度も傷付けられてきた。
 ただその冷たさの奥には誰よりも深い愛情がある。健介もそれを充分理解しているし実感している。感謝している。
 それでも、今その言葉は健介には冷たすぎて鋭すぎた。

 父さんは、僕がどんな思いをしていてもどうでもいいんだ。どんな傷を負っていてもどうでもいいんだ。

 結局僕は、実の子じゃないから。
 その言葉が頭に浮かび、また涙が溢れた。


 血のつながりの無い、唯一の家族にすら愛されていない僕を、愛してくれる人がいるはずがない。
 そんな簡単な理屈で心が切り裂かれて、立ち上がることもできず涙を止めることもできない。


 生まれてこなきゃよかったのに。僕なんか。
 遠い昔にそんな風に考えたことを思い出す。
 邪魔なだけの僕なんか、汚い小さい子供の僕なんか、いなきゃよかったんだ。
 ごめんなさいと謝った過去を思い出す。



「君はそれでいいっていうの?」
 驚いたような声で責めるように君島が訊いた。
 もう聞きたくない。もう何も知りたくない。僕はもう何も考えたくない。でも動けない。耳も塞げない。
 泣きながら蹲る健介の耳に、父の返事が聞こえた。


「……いい悪いじゃないだろ。それが実際そうだとして、原因の母親はもういないしあれから何年も経っている。いまさらどうしろって言うんだ」
「いまさらなんて……!健介はまだ子供だよ!」
「つまりは、矯正しろってことか?」
「……」

 君島が絶句した。
 それほどに冷酷な父の言葉に、蹲った健介は震えてくる。
 矯正、なんて。まるで不良品のように、欠陥品のように、出来損ないのように。
 その言葉にショックを受けている健介の気持ちに添うように君島が詰る。
「……矯正、なんて、そんな言い方、」
 君島が言葉を終える前に、父が続けた。


「元々、何も持っていない子供だった。汚い、小さい、何も持っていない見捨てられた子供だった。あの事件の時には殺されても気が狂ってもおかしくない瞬間が何度もあった。そういうものを、全部切り抜けて生きてきた子供だよ。今の健介はあの時生き抜いてきた経験に培われているはずだ」
「……え、」
「お前が言ってる、母親に傷付けられた精神的な被害もその一部だろ」
「そ、……いうことになるけど」
「ああいう風に生き延びてきたんじゃないのか?あれが健介の生きる術なんじゃないのか?」
「そう、だとしても、」
「だとしたら生存本能だろ。生きるために獲得した恐怖心なんじゃないのか?その強い恐怖心のお陰で死なずに済んだんだろ」
「……でも」
「あれほどの目に遭ってるんだ。傷があって当たり前だ。生きて帰ってきたのが奇跡だったんだ。それで充分だろ?生きてるだけで、歩いてるだけで、学校に行ってるだけで、充分だ」
「……」
「その事件の影響だとして、女が苦手で朱鷺が好きで、なにか都合が悪いか?」
「都合?」
「方々に迷惑を掛けることもあるんだろうが、許容範囲だろ」
「……まぁね」
「生きていけるだろ?あのままでずっと。それで充分だよ。俺は」


 壁を挟んで、蹲っている健介の涙が止まった。


「だいたいお前だって俺だってこの年まで結婚もせずになんとか生きてこれてるだろ。朱鷺も。そんな身の上で偉そうに健介をなんとかしたいなんて言えるのか?」
「……僕は、結婚できないんじゃなくしないだけだよ」
「俺はただしないんじゃなくしたくないからしない。健介に別の理由があって結婚しなくても、同じことだろ」
「まぁ……そうかも」
「それに女性不信なんてこのご時世、持ってた方がいい」
「……君さぁ……」
「お前も持った方がいい」
「……」



 蹲って泣いていた健介が、蹲ったまま笑い出した。


 父さん。
 すごいね。父さん。

 それがどうだっていうんだ。
 それは、どうでもいいって意味じゃなく、どうってことないって意味。
 僕の傷なんか、あって当たり前。あれほどの事件に遭ってるんだ。そういうものを全部切り抜けて生きてきた子供。


 生きてるだけで充分だ。歩いているだけで、学校に行ってるだけで。
 そんなふうに思っていたなんて。

 こんなにも深い愛に、僕はまた気付かなかった。
 あの時みたいに。
 嘘つきの冷たい父さんなんかいらない、これからはお母さんと暮らす、と家を出た10才の時みたいに。
 あの時、何にも知らないで何にも気付かないで自分から事件に飛び込んでいったような僕を、探し出して見つけ出して救ってくれたのは父だった。

 声を出さない、言葉を発しない朱鷺を、怠け者だと断じたのもあの時期。
 みんなが甘やかすから、許すから、朱鷺は努力をしなかったのだと詰った健介を、父は叱った。
 朱鷺はしゃべらないと自分で決めただけだ。そのことに一体誰の許可がいるんだ。


 思い出して、健介はため息をつく。

 父さんは、大きいな。

 僕のことも、朱鷺ちゃんのことも、そのままで受け止めてくれる。
 なにかまずいのか?まずくないだろ?そしてあっさり言葉の方を切り捨てる。

 僕なんか全然敵わない。いつまで経ったって他人の意見に翻弄されて右往左往しているだけの僕なんか。父さんに敵うはずがない。朱鷺ちゃんだって、僕なんかより父さんの方が好きなはずだ。

 だって父さんだもん。


 結局健介は、笑ったまままた涙を落とした。






 その後まもなく扉が開く音が聞こえ、原田さんいらっしゃいますかこちらの方ですか、と大声が聞こえ、健介は慌ててベッドに戻った。そしてそこに座って、今起きて靴を履いたところ、という姿勢を作ってパーテーションが開くのを待った。
 じきに看護師が顔を覗かせ、起きてたのねこちらにどうぞと案内され、どんな顔をしたらいいのかわからず健介は俯いて後に続いた。

「ああ、君。すっかり落ち着いたようだな。怪我はなかったかい?」
 そう大声で話し掛けられ顔を上げると、紺のスーツを着た大柄な男性職員がにっこり笑っている。さっき検査場の前で腕を掴まれた人のような気がする。
「まぁまぁ、珍しいことではないですから。特にこの時期多いことです。お父さんもそう大げさに考えないでやってくださいね」
「……珍しいことではない?」
 父がそんなところに引っ掛かる。
「ええ。旅立ちの時期ですからね。別れを惜しんでついつい勢いがつくことがありますよ」
「勢いですか」
「若いんだからね!まだまだこれから新しい彼女もできるさ!めげずに頑張りなさい!」
 職員がさらに大声で励ました。相当に誤解されているとは思ったが、はい、迷惑掛けてすみませんでした、と頭を下げた。


 その後も健介は顔を上げず、父と君島に目を合わせずに一度謝り、その後も何もしゃべらずに駐車場まで歩き車に乗り込み、1時間の無言のドライブで家に戻った。その時点でまだ昼前だったので、父は方々に電話を掛けて段取りをつけて家に入らずそのまま出勤していった。君島は今日も昼過ぎの出勤なので部屋に戻り一眠りすることにした。健介も同様に部屋で一眠りすると言って家に入った。とにかく話は今日の夜にしようと、確認して別れたはずだった。




 しかしその晩、健介は失踪した。



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