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7-5

Category: JOY  

 突然横に立っていたバーテンは、いつもの青いラインの入った黒基調のブルゾンと黒のジーンズ黒のライディングシューズ、今日は黒ずくめのライディングウェアに身を包んでいる。
 何度か見たことがあるだけの姿で馴染みがあるわけでもないのに、浅井はなぜかほっとした。
 優しい色合いに溢れた院内で、悪魔か殺し屋のようなバーテンの黒い姿が現実に引き戻してくれる気がした。ここは自分のいるべき場所ではないのだと教えてくれている気がした。

「あ、君島連れて帰ります。お大事に」
 バーテンがおじぎをして立ち去ろうとする。
「待って!」
 とっさに浅井はバーテンの腕を掴んだ。バーテンは振り返り驚いた様子もなく浅井を見下ろす。その落ち着いた様子で浅井も落ち着き、また頼んだ。
「待って」
 ただそう繰り返すまでもなくバーテンはそこに留まっている。やはりその落ち着いた様子でほっとして、また頼んだ。
「どこか、誰もいないところに、行きたい」
「……誰もいないところ?その病室、今無人なんじゃないですか?」
 真面目な顔でそんなことを訊いてくる。鈍いのかふざけているのか不明なので、付け足した。
「……ここじゃない誰もいないところに行きたい」
「ここじゃない?」
 そう繰り返してバーテンが視線をくるりと巡らせる。
 その時、廊下の陰から母の声が聞こえた。さっきの看護師と言い争っているようで、時々君島の声も加わった。
 さっきの病室で一方的に罵られた恐怖が蘇り、とっさに浅井はバーテンの腕を掴んで逃げるようにその声に背を向けて廊下を走り出した。
 なんですかいきなり!と文句を言いながらもバーテンは腕を振りほどくこともなくついてくる。
 しばらく走ったところでバーテンに腕を掴み直されて急停止させられ、この先入院病棟と記された案内標識を指で示され、そのまま矢印の方向に腕を引っ張られた。
「連絡通路はだいたい空いてます」
 そう言ってバーテンは歩き出す。
 突然全速力で走り始めたせいで呼吸は苦しいのだけれど、ゆっくり歩いていられない。浅井はまたバーテンの腕を掴み直して駆け出した。
 勘弁してくださいよ、というバーテンの泣き言が後ろから聞こえた。


 小さな扉を二つ開けて通り過ぎ、入院病棟という表示の前でやっと立ち止まった。横の窓の桟に両手を着いて呼吸を整える。息が苦しいし足が痛いし肩も痛い。それでも少し汗をかき、なんだかすっきりしていた。
 何もないクリーム色の壁に囲まれたただの通路。何もない狭い渡り廊下なのに、自分の世界に戻ってきた気がした。病室で母に詰られていた空間とは別世界。自分自身に戻ってきた気がした。
 振り向くとバーテンがどこを見るでもなく考え事でもしているように廊下の隅に視線を落としている。病院の景色に溶け込まないその黒い姿に、浅井はまた励まされた。ここは日常じゃない。自分の世界じゃない。バーテン君がきっと戻してくれる。そう思った。

「バーテン君」
 息を切らせながら訊いた。
「あなたに、猫の時みたいな、簡潔な答えを、出して欲しいの」
「は?」
 バーテンは眉を顰めた。

 轢かれた猫の最期を引き受けたことを、猫のためじゃなく自分のためだと言ったバーテン。俺が不愉快だったからと。
 あの誰にも阿らないシンプルな論理で解釈して欲しい。今何をどう考えたらいいのか、教えて欲しい。私を現実に戻して欲しい。
 まだ息を切らせたまま浅井は説明しようとした。

「私ね、会社で、刺されたの」
「……だいたいさっき聞きました。君島の声がでかかったんで」
「そう?それで、どう?」
「……どうって何ですか?」
「……私もわからないの」
「……それは俺にもわからないですよね」
「そんなはずない」
「……」

 自分には繋げられない断片を、バーテンに組み直して欲しい。

「会社で、刺されたの。後輩の事務員に」
「私を庇って、別の社員も刺されたの」
「彼は、私より傷が深くて重傷」

 一つ一つ確認するように、浅井は断片を掴んでいく。

「その彼と後輩が、付き合ってるんですって」
「後輩は、彼の子供を妊娠してるんですって」
「だから私は刺されたんですって」

 それから、それから、他の断片は……

「……あなたがその彼を略奪したという話でしたよね?」
 バーテンが訊いてきた。
「……そう、らしいのよ」
「らしい?」
「……私には、もう何もわからないの」
「付き合ってはいるんですね?」
 浅井は小さく頷いた。

 これが断片の全て。この断片を繋げた簡単なストーリーに誰もが納得して私を詰る。そしてそのストーリーに私は覚えがない。そこで終わってしまう。
 わからない、覚えがない、知らない。その反論を証明することができないから。
 知らないはずがないじゃない!と責められてお終い。
 もしかしたら本当に、知っていたんじゃなかった?責められ続けてそんな気すらしてくる。
 私は本当に知らなかったの?ほんの昨日までの自分すら信じられなくなってくる。
 大沢君と栗尾さんが付き合ってるって、知ってたんじゃなかった?

 そんなことを悶々と考えて無言で俯く浅井の耳に、低い掠れた声が入ってきた。

「……とりあえず、要素は三つです。後輩が妊娠している、その父親がいる、その父親をあなたが盗った」

 はっと気付いて顔を上げると、殺し屋のように黒いバーテンはブルゾンのポケットに両手を突っ込んで廊下の隅を見下ろしていた。それからちらりと浅井に視線を寄こした。

「まず、後輩が妊娠しているのは確かですか?」
 浅井は何度か瞬きをして、正直に応えた。
「……私はわからない。でもみんながそう言って、」
「第三者の確認はあるんですか?」
「警官もそう言ってたの」
「警察で検査でもしたんですか?」
「そうは聞いてない」
「じゃ、その話はグレーです。次にその父親はあなたと一緒に刺された男なんですか?」
「わからない」
「それもグレーだと、最後のあなたがその父親を略奪したという件はこの二つの前提の上に成り立つものだから、あなたが今並べた事柄は全て無意味です」
「え?」
「事実はあなたと社員の二人が後輩に刺されたという傷害事件だけです」
「……そう、だけど」
「加害者が妊娠している、被害者の一人がその相手である、という証明証拠が無いのなら、情状酌量もできないですよ」
「情、状?」
「だいたい酌むべき事情があったとしても、傷害は傷害ですから後輩は犯罪者です」
「その、酌むべき事情は、どうしたらいいの?」
「そんなもの加害者が訴えてくるべきものです。被害者のあなたは被害だけを訴えたらいい」
「え」
「仮に全て事実だとしても、被害者はあなたです」
「……でも、」
「仮に全て事実だとしても、まともな人間なら凶器持つ前にまず話し合いに持ち込みます」
「……そう、ね」
「何の説明もなくいきなり凶器で刺してくるような猟奇的な事務員は監獄にぶち込んでおいてもらった方が世のためです」

 ぼそぼそと低い声でそんなことを呟かれ、浅井はつい吹き出しそうになったが堪えた。
 ついさっき我が身に起こった事件だというのに笑い事にしてはいけない。
 そしてバーテンは冗談を言ったつもりもないようで、そのまま続けた。

「多分、その猟奇的な加害者に冷静な釈明なんかできないでしょうから、酌むべき事情を正しく知っているのはもう一人の被害者です」

 笑顔を噛み殺した後、その言葉にぞくっとする。もう一人の被害者。大沢君。

「重傷のその男が回復して説明できるようになるまで、全て保留するしかないと思います」

 大沢君の回復まで全て保留。

「それが今のところの結論じゃないでしょうか」



 確かに、大沢君に聞けば全て分かる。大沢君に聞くまで何も分からない。だから、大沢君に聞くまで全て保留。
 結論はそれしかない。

 それが結論だ。


 どうしてこんなことが分からなかったんだろう。
 バーテン君に聞くまでこんなことも分からなかった。

 浅井は、大きくため息をついた。



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