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 和臣君一家のちょっとした転機
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 目覚まし時計に起こされて、今日も仕事かと頭を掻きながらベッドを降りる。
 トイレに行こうと廊下に出たら後ろからドドドドっと足音が聞こえて、振り返る前に突進してきた美姫にぶつかられてトイレのドアを開けられて、先を越された。
 寝起きでぼんやりしていたのに突然のそんな出来事にびっくりして、僕はしばらく閉められたトイレのドアを見詰めた。

 ……こんな早朝から、女子大生が人を押しのけてトイレに突進するか?
 家族とは言えお先に失礼しますぐらいの挨拶はないの?
 と、僕は娘の不作法に少し腹を立てた。

 ぼんやりしてびっくりした後にはむかむかして、でもしょうがないからそこから離れることにして踵を返す。
 その時、中から苦しそうなうめき声が聞こえた。
 だからつい立ち止まった。
 少し咳き込むような声も続いた。


 ……吐いてる……?


 変な物でも食べたんだろうか。
 それか風邪?胃腸風邪なんて最近流行ってるんだろうか。

 そんなことを考えつつ、やっぱりまだぼんやりしながらダイニングに向かった。
 ぼんやりしながらも、そんなウィルスを持ってるなら感染されたくない、僕はもうしばらく仕事が忙しいんだ、とか考えた。
 そしてドアを開けるとお母さんが食事の準備をしていた。

「あら。今日も早いのね」
「うん。納期が近いから」
「そう。座って。すぐに用意できるから」
「はい」

 ちょっとした大型特殊受注があり久々に現場に駆り出されて、忙しい日々だった。それが今日一段落着く。
 これで終わりではないのだけれど、やっと今日は早く仕事から戻れる。
 だから今日は仕事帰りに久々に道場に行こうと決めていた。

 道場、と考えて、なぜか連想してしまった自分が悔しいけど、そういえばとお母さんに訊いた。

「美姫がさっき体調悪そうだったよ」
「美姫?何かあった?」
「戻してたみたい」
「あら。大丈夫かしら?」
「風邪とか食べ過ぎとかじゃない?」
「そう……かしら。夕べあの子そんなに食べてたかしら……、あら?」
「何?」
「夕べ……晩ご飯何だったかしら?」
 そんなことを呟くお母さんに、つい吹き出した。吹き出したわりに僕も思い出せない。
 何だったかな?豚じゃなかった?豚のゴボウ巻。違う、ゴボウの豚肉巻。それは一昨日よ。その前かな?昨日は鶏を買った覚えがあるわ。鶏?ほら、鶏肉とアスパラのサワークリーム煮?あ、そうかな?そうだね!僕あれ好きだよ。
 と、そんなことで頭の体操を始めてしまったので美姫のことを忘れてしまった。


 その後は、今日は天気がどうだとか週末はどうしようとか新しく家具屋さんができたとか、そんな話をしている間も子供たちは起きてこなかった。
 食事を終えて出勤準備も終えた頃にやっと果維が出てきた。
「おはよー。和臣君今日も早いんだね」
「そんなに早くないよ。もう7時になるのに」
「まだ7時前だよ。これで早くないなんて、和臣君早起きのおじいちゃんみたいだ」
 それを聞いてお母さんが笑った。
「最近和臣君ずっと早出だから、学校の登校時間と合わないのよね」

 そうなんだけど。でも朝一目ぐらい子供たちの顔を見たいと思う。

「ここしばらく真姫と美姫を見てないよ。あの二人は毎日一体何時に起きてるの?」
「お姉ちゃんたちは僕も朝あんまり会わないなぁ」
 果維が椅子に座ってそう応えた。
「どうせ毎日夜更かししてるんだろうね。そんなことだからもうすっかり暖かいのに風邪ひいたりするんだよ」
 そう文句を言って、そういえば美姫はトイレに起きたくせにまた寝たのかと気付きまたむっとした。
「風邪?お姉ちゃん風邪ひいたの?それはたるんでるよねー」
 果維が同調してくれた。



 そして出社して、まず工場に行って進行具合を確認してから最終工程の段取りを組んで部品を揃える。
 元々全て準備してあったものだから予定通りストレスなく仕上がっていく。合い間に本来の自分の仕事を携帯とタブレットでこなしつつ、最後はパッキングして納品作業。
 その頃にはもう昼になっていたので一度事務所に戻った。
 一応机の上の連絡事項を一通り眺めてから、昼食は今日は外に出る余裕がないだろうと思って弁当を頼んでいたのでそれを受け取りに食堂に向かう。
 その途中で、部下の林に捕まった。

「部、部長、話があります!い、急ぎです!」
 なぜか息も切れ切れに赤い顔をして追い縋ってきたのだが、そこそこ用件に見当はついたので、わかったと頷いた。
 事務所のある本棟ではなくて工場の方の個室を担当に貸してもらえるように連絡して、弁当を引き取って二人でそっちに向かった。
 その歩いている間中、ほぼ無言。林の相談事は会社の存続に関わるトップシークレットだからどこにも漏らせない。だから事務方幹部のいる本棟では話ができない。
 最も大きい第二工場の2階の資材置き場横談話室のドアを開け、林を入れてドアに鍵を掛けた。
 その途端、林が振り向き、一息で宣言した。

「自分!結婚します!」

 僕は左手に弁当を持ったまま、誰と?と訊いた。

「彼女です!実は、子供が出来ました!」
「早いな」
「はい!社長令嬢との縁談を断りたいなら先に結婚してしまえばいいっていう部長のアドバイスを実行しました!社長令嬢と縁談が持ち上がってるけど僕は君と結婚したいと彼女に打ち明けたらやたらと盛り上がって子供もできてしまいました!」
「おめでとう。良かったな。これで社長も諦めるよ」
「はい。良かったです。なんかむしろ良かったです」
「むしろ良かった?」
「はい。実はもう5年ぐらい付き合ってる彼女なんですけど、結婚のきっかけが掴めなかったので……」

 伝えるべきことを全部吐きだしてほっとしたのか、林がやっとため息をついて笑った。
 まぁあとは食べながら聞くよと言って、テーブルに弁当を置き椅子を引いた。

「結婚のきっかけなんていくらでもあるような気がするけどね」
 と、お茶を一口飲んでから箸を割ってそう言うと、林が間髪入れずに応える。
「ないですよ。付き合いが長ければ長いほどないです。誕生日とかクリスマスとかにプロポーズとか安易に思いつくんですけど、思い切れないというか。今じゃない、と毎年思うんです。そして5年ずるずるです」
「そんなものかな。それじゃ社長から呼び出しがなかったらまだしばらく結婚してない?」
「してないですね。まぁ、子供が出来てたらしてたと思いますけど」
「……そんなもんかなぁ」

 弁当の唐揚げが今一美味しくない。冷めているせいじゃなく、お母さんの手作りのが激ウマだから他のは美味しくない。

「今時は子供が先なのは普通ですよ。それが最高の結婚の動機じゃないですか。一緒に子供を育てようってのが結婚ですから!」
「なるほどね」

 ブロッコリーも美味くない。今朝食べたのが遠藤先生からもらった新鮮野菜だからまるで別物の味がする。

「……そういえば、令嬢の縁談に一番最初に候補に挙がったのが部長だって聞きましたけど、どうやって断ったんですか?」
「……ん、まぁ、いろいろと事情を察してもらって」
「事情?どんな手使ったんですか?」
「手なんか使ってないよ。僕では荷が重すぎると社長が判断したんだよ」
「まさか!部長でも荷が重いならなんで僕なんかにお鉢が回ってくるんですか!」
「若いから」
「そんな!って、その、そういうことで、後で一緒に社長の所に行ってもらえますか!」
「一人で行けよ」
「お願いします!令嬢もいるので怖いんです!」
「また僕が画策したと思われるのも面倒なんだよ」
「また?」

 なにしろ林で5人目だ。
 いい加減社長も婿は外からもらってくればいいと思うのだが。
 銀行の頭取の次男とか。三男とか。支店長とか。支店長の次男とか。取り引き企業の役員とか。その次男とか。

「子供ができたと聞いたら諦めてくれるよ。
 式とか入籍の日取りなんかを具体的にお知らせするとなおさら良し」
「……本当ですか?」
「うん。それでみんなこの苦境を乗り越えて来てる」
「そうですか。わかりました。頑張ります」
「頑張れ」
 僕はそう励ました。





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 昼からまた工場での作業に取り掛かり、思いがけず手間取ったものの夕方には発送できて、次の段取りを担当全員で確認してから事務所に戻って、後回しにできる仕事は全部保留にして急いで書類を片付けたけどそれでも会社を出たのは8時過ぎ。
 道場に行くと少年部は終わってたし成年部も帰り支度の人多数。
 でも僕と同じく遅くに来た練習生もいるので、相手をしてもらった。
 久々なので身体が鈍っている。毎日続けないと感覚は簡単にどこかに行ってしまう。今日のこんな短時間の稽古じゃ戻って来ない。明日もやらないと。明日も来たいけど、来れるかな。これでまた日を開けると戻るのにもっと時間が掛かってしまう。
 と、面を抱いて天井を見上げていたら、遠藤先生に呼ばれた。

「ちょっと、話がある」

 そんなことを改めて言われて、少し構えてしまう。
「……なんですか」
「うん。ちょっと、訊きたいことがある」
「なんですか」
「うん。その、……ここじゃなく、そっちの、廊下で」

 先生が母屋に繋がる廊下を指差してそう言った。
 頷いてそこまで歩きながら、何の話ですか?と訊いたが先生は応えない。
 戸を開けて廊下に出て、先生が後ろ手でそれを閉めた。
 窓から外の景色が見える。高低ところどころに設置してある数個の庭園灯だけが、散った桜と咲き始めた低い庭木の白い花をぼんやりと浮かび上がらせている春の終わりの模様。
 僕がそんなものを鑑賞した後もまだ先生は俯いたまま黙っている。
「……訊きたいことってなんですか?」
 僕がそう促すと、やっと先生が顔を上げて口を開いた。


「……お前、結婚しようと思ったことはないのか?」
「は?」

 やっと口を開いたかと思えばそんな質問。

「付き合った経験がない訳じゃないんだろ?」
「え?」
「結婚してもいいかなっていう相手の一人や二人はいただろ?」
「何の話ですか?」
「そういう気持ちが分かるかどうかって話だ」
「そういう気持ち?」
「結婚しようって気持ち」
「僕が?」
「ないのか?」
「今はないです」
「過去はあったのか?」
「……だから何の話ですか?」
「結婚したいっていう気持ちはわかるかって話だ」
「一般論ですか?そういう気持ちがあるのは知ってます。うちの社長の娘は長年そんな野望を抱いてますし、そのせいで今度部下が出来ちゃった結婚します」
「なんだそりゃ」
「いまどきは、結婚しようと思う前に子供ができるらしいですよ」
「……ん?」
「子供が出来たってことが結婚の動機らしいです。一緒に子供を育てることが結婚だそうです」

 先生が、また沈黙した。
 なんなんだろう?先生がこんなふうにぐずぐずしているのは珍しい。

「訊きたいことってそんなことですか?」
「ああ、いや」
 僕の声に反応して顔を上げて、またよくわからないことを訊いてきた。
「その、出来ちゃった結婚は、どう思ってる?」
「どう?」
「いまどきはそういう順番だということを、一般論じゃなくお前はどう思う?」
「一般論じゃなく?って、まぁ別にそういうこともあるのかなって、……でもそれで結婚して続くのかなっていう疑問はありますね」
「疑問。じゃあ特に反対ということでもないんだな?」
「反対?反対するほど身近な話題でもないですし」
「いや、例えば、」

 先生はそこまで言って、言葉を切った。

「例えば?」
 僕がそう訊きかえしたけど、先生はもうそれ以上は話すのを止めたらしい。
「いや、いいんだ。今日はもう遅いしな」
 そう言ってため息をつき、振り返って戸を開こうとした。
 あまりに中途半端なので、先生、と僕は呼び止めた。
 すると先生は、ちらりと振り向き僕の顔を見詰めて、また何かを言おうと口を開いたけどやっぱりやめて、戸を開いて中に入ってしまった。


 なんだ一体?
 結婚?結婚したいって気持ち?
 もしかして先生結婚しようと思ってる?今頃?もしかして果維の彼女のお祖母さん?
 それならそれでおめでたい話だと思うけど。
 でも出来ちゃった結婚って言ってたな。
 …………。
 え?
 え?
 出来ちゃった、
 って、まさか、
 いや、まさか。


 …………


 なんでこんなこと考えてるんだ。ばかばかしい。
 もうこれ以上考えたくない。
 きっと考え過ぎだと思う。
 僕は疲れてるんだと思う。
 なるべく頭を空っぽに。思考停止。
 なにも考えないように、僕は全て忘れようと努力しながら自宅まで運転に集中した。


 車を降りてからは歩行に集中した。何も考えないように。
 エレベーターを降りて家のドアの鍵も音を立てないように集中して開けた。
 そしてそのまま集中して静かに廊下を歩いて行くと、ダイニングからお母さんと果維の声が聞えた。


「え?!そ、そうなの?!嘘ーっ!」
「うん。そうなのよ。気付いたのは少し前なんだって」
「隠してたの?」
「悩んでたみたいだけど、今朝気持ち悪くなっちゃって隠しきれないと思ったのね」
「えーっ!ど、どのくらい?何か月なの?」
「三ヶ月ですって」



 ……え?



「そうなんだ!じゃ、結婚するんだよね?」
「そりゃそうよ。でもね……」
「和臣君?」
「そう。絶対反対するでしょ?」
「するだろうねー」



 ……何?何の話?
 気持ち悪くなった?
 三ヶ月?
 結婚?
 反対?
 僕?

 まさか



「でも和臣君が反対してもお腹の子供はもういるんだし」
「そうよ。大事にして元気に産まなきゃ」
「それで、当のお姉ちゃんはどこに行ったの?」
「だから、和臣君のこと二人で相談するって遠藤先生の所に行ったのよ」





 ……あのじじぃっ!!!!!!!!!



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 僕は速攻で今来た道を戻った。
 何も考えないように運転に集中しようとした。

 けど。

 今朝、トイレで美姫が吐いていることをお母さんに伝えたのは僕だ。
 きっと僕が出勤した後に様子を見に行ったんだ。
 そこで白状したんだ。

 三ヶ月。三ヶ月って。
 いつからそんなことに。
 全然気付かなかった。
 美姫が先生につきまとってるのは知ってたけど、まさか先生が応えるなんて。
 まさか。まさか。

 でも、さっきの先生のあの不可解な質問。
 結婚したいっていう気持ちはわかるか。
 出来ちゃった結婚に反対はしないんだな。
 これが全てだ。

 信じられない
 信じられない
 どうしてそんな


 いや、考えない。考えるな。道場に着くまでは思考停止。


 でも、美姫は僕の娘なのに、美姫と先生がなんて、
 そ、それじゃ、先生は僕の義理の息子になるの?

 その子供はそれじゃ、僕の孫なの?


 僕の孫?




 その文字を思い浮かべて本当に思考停止に陥り、僕は信号無視をしてしまった。何台分ものクラクションが聞こえてから気付いた。というか思考停止前にもいくつか交通違反をしてたと思う。

 さっき出てきたばかりの道場の駐車場にまた車を突っ込み、僕は運転席を飛び出した。

 どこにいるのかわからないけど庭を走り道場の玄関前を過ぎる。

 庭園灯だけが灯る薄暗い庭でさっきの白い花が幽霊のように浮いている。
 色違いの濃いピンクが溢れるように毒々しく咲いている。

 僕にはそんな風に見える。
 今はそんな風にしか見えない。

 そんな庭を突っ切り先生の自宅前まで行くと、


 玄関前に先生が立っていた。
 向かい合って立っている美姫の後ろ姿も見えた。


 僕は勢いを止めずに突進した。
 まずは一発殴ろうと思った。
 僕のスニーカーが砂利を蹴る音だけが聞こえる。
 雄叫びなんて上げるはずがない。
 なぜなら僕は先生の姿を見つけてからずっと呼吸を止めている。
 無酸素で全てやり遂げる予定だった。

 当然、先生が僕の姿に気付いた。
 腕組みをしたまま向かってくる僕をじっと見ている。
 いつでもそうだ。先生はいつでも冷静だ。
 僕が子供の頃からずっといつでも冷静に僕を受け止めてくれていた。
 だから僕は、先生を信用して信頼した。ずっとずっとこのままの関係だと信じていた。
 時々むかつくことはあってもずっとこのままだと信じていた。
 それなのに。

 そして美姫が音に気付いて振り向き、僕の姿に息を呑んだ。
 そして一歩動いて両手を広げて先生を庇おうとした。


 ……と思ったら、もう一歩横にずれて、先生から逃げた。


 え?薄情だな、美姫、と少し驚いて、勢いを削がれた。
 でも一応殴るつもりで握っていた拳はそのままに、先生の前に立ってから気付いた。


 先生の横にもう一人立っていて、美姫はそいつの方を庇うように抱きついている。



 ……あれ?



 事態が呑み込めず、僕はまだ握った拳を振り上げたまま、先生を見た。
 先生はさっきと全く同じ腕を組んだポーズで同じ冷静な表情で、僕を見下ろしている。

 なに?これ。どういうこと?

 そしてまた何者かに抱きついている美姫に視線を戻した。
 そして美姫が、肩に顔を隠すようにしてゆっくりと怯えるように振り向いた。

 その顔を見て、僕は思わず息を呑み、何度か瞬きをしてから、名前を呼んだ。





「……真、姫?」





 真姫はずっと、ストレートのロングヘアだった。小学生の頃から。美姫はショートからセミロング。
 一卵性でそっくりな二人は間違われるのが嫌だからと髪型で区別してもらうことを決めたらしい。
 でも僕は二人はそんなにそっくりだとは思っていない。一目で分かる。

 同じ髪型でも僕はどっちか一目で分かる。
 美姫と同じショートにしても、真姫だと分かる。
 顔を見れば一目で分かる。
 でも後ろ姿じゃ無理だ。


 真姫だった。
 美姫じゃなく、真姫だった。



「真、姫、どうして髪を、」

 こんな修羅場でそんな間抜けな僕の質問に、応えたのは遠藤先生。

「妊娠すると女性はなぜか髪を切るんだよ。そんな事例を結構見てきた」
「なっ……なん、」

 なんで、遠藤先生?
 あれ?美姫じゃなくて真姫なら、どうして先生の家に来たんだ?

 なにか忘れてる。
 そもそも何しに来たのか忘れてる。
 なにがあったんだった?

 僕はもう一度先生を見た。
 先生は依然として腕組みをしていて僕を見下ろしている。
 そして僕と目が合ってから、一度頷いて、言った。


「そういうことらしい」


 なにが?!と僕が目を剥いたので、先生が真姫の方を目で示した。
 だから僕もまた真姫に目を向けた。
 真姫は萎れた顔で僕を見ていた。
 しかし僕がそれを見る前に、声が響いた。


「オミ先生っ!申し訳ありませんっ!!!」


 真姫の横で腰を90度に曲げている小太りの男。
 全身の鳥肌が立って体中の毛が逆立った気がした。



「妹さんとの結婚、許してくださいっ!!!」





 なぜ、高橋……!!!!!!




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「あの、本当にその、こんなことになってしまって、なんていうか自分としてはその、」
 やっと顔を上げてそんな無意味な繋ぎ言葉を並べる高橋を、

 とりあえず一発殴った。

 真姫が悲鳴を上げ、よろけて頬を押さえた高橋が再度90度の礼をしながら
「ありがとうございます!」
 と声を張った。そんな高橋の胸倉を掴んで顔を上げさせて、訊いた。
「何がありがとうだよ」
「手、手、手加減、してくれましたよね、」
「殴り飛ばしてお前の頭骨で壁や戸を破損させたら遠藤先生にぼったくり請求されるからだよ」
 僕の返事を聞いて高橋が頬を引き攣らせた。どうやら笑ったようだ。
 そして僕はそのまま高橋を庭の方に引き摺り、5mほど玄関から離れて、告げた。

「ここなら、思い切りやれる」

「和臣君!」
 そう僕の名前を呼びながら、真姫は高橋に抱きついた。
 僕の名を呼びながら、高橋に。

「和臣」
 今度は先生が僕を呼んだ。
「お前に言えば間違いなくそういう反応をするだろうから、二人で俺のところに相談に来たんだ」
「どうしてそんな真似をするんだ!先生に相談したって僕に殴られるのは一緒だろ!」

 確かに、という先生の呟き声が、やめて!という真姫の叫び声にかき消された。

「もう怒らないで。隠しててごめんね、和臣君」
 高橋に抱きついて、僕を真っ直ぐ見上げて真姫がそう言った。
 しかしそんなふうに目を潤ませて謝られたって納得できるわけがない。
 僕はそんな真姫にではなく高橋に怒鳴った。
「いつからこんなことになってたんだ。どうして高橋なんだ。どうしてこんなことになったんだ。この先どうするつもりなんだ」
 僕が矢継ぎ早に訊くと高橋が顔を上げた。

「オ、オミ先生。僕たちそんなに付き合いは長くないんですが、ていうかまだその告白もしてなかったので正式に付き合ってもいなかったというか、」

 そこまで言った高橋を、再度ぶん殴った。
 もちろん真姫を巻き込まない角度で、今度は頬ではなく腹部を。
 深くテイクバックして思い切り踏み込んだので、高橋は2m跳んだ。
 真姫がまた悲鳴を上げた。



「付き合ってもいないのにどうして妊娠させたんだ」
 殺してやりたい、と思った。
 告白もしていない、付き合ってもいない。妊娠している真姫の前でそんな言葉を口にするような男は八つ裂きにしてもいいと思った。
「こんなやつと結婚なんか許さない!子供はうちで産めばいい!僕が育てる!」
 殴り跳ばされて白い幽霊のような花の下に転がった高橋を見下ろして僕はそう言い放った。


 しかし真姫が、転がった高橋を介抱するようにその傍にしゃがんで、僕に顔を向けてまた目を潤ませて叫んだ。




トモリンは悪くないのっ!」




 真姫の、悲鳴のように叫んだその言葉を聞いた瞬間、僕の世界の色が消えた。



「最初は本当に付き合ってる感じじゃなくて、一昨年のお城でのお礼に会ってもらってアドレス交換して時々会うようになって話すようになって、」
「ぼ、僕も最初はまったく下心もなかったですし、友達として、オミ先生の情報をもらうのが目当てだったりしましたし、」
「でもね、トモリンいつでもすごく優しくてね、和臣君に憧れてる気持ちも本物でね、それがね、ちょうど私が歳三に憧れてるのと同じかなって思ったの」
「そうだね。マキリンが歳三に憧れてるのと、僕がオミ先生を好きな気持ちと、同じだってマキリンに気付かされました」
「なんだか切ないけど楽しいよねって、本当に気持ちをわかってもらえて、それが嬉しくて、」



 世界の色が消えて、二人の声も遠くに聞こえる。意味なんかわからない。
 ふと目を逸らすと遠藤先生が背中を向けて深く俯き肩を震わせている。
 爆笑中だ。



「それで、なんだか自然とそんな関係になって、でも全然いい加減な気持ちじゃなかったし、」
「僕も告白するきっかけを逸してしまってたんですけど、実は夏から海外赴任が決まって、長期間ではないんですけどその間離れるのが嫌で、できたら一緒に来て欲しいってプロポーズしたところだったんです!」
「私もね!子供ができたってわかったから結婚してって言うつもりだったの!」
「だから僕たち真剣なんです!マキリンと結婚させてください!」
「トモリンと結婚したいの!反対しないで和臣君!」



 先生は依然として深く俯いたまま腕組みをして、振り向いてくれない。
 僕はまだ思考停止中。
 視覚も聴覚も恐ろしく低下していた。

 そのせいで気付かなかった。


 突然腕を掴まれ後ろに引かれ、びっくりして振り向いた。

 お母さんが真っ青な顔をして、息を切らせて、僕を見上げていた。



「和臣君。赤ちゃんがいるのよ」



 お母さんは、まずそれを言った。
 お母さんはまずそれを心配している。
 そうだね、わかってるよ。もちろんわかってる。
 僕はお母さんを安心させるように頷いた。
 するとお母さんはほっとしたように笑った。

 その笑顔で、やっと僕の世界に色が戻ってくる。


「やっぱり殴ったんだー。和臣君」
 果維の声が聞える。音も戻ってきた。
「あー!大丈夫ですか高橋先輩!遠藤先生止めてくれなかったんですか!」
 美姫の声も聞こえる。
 大丈夫、と応える高橋の声は聞こえたが、先生の返答はない。恐らくまだ爆笑中。


「オミ先生」
 ゆっくりと立ちあがった高橋が、腹を押さえて僕を呼んだ。
「僕ずっとオミ先生に憧れてて、軽いストーカーみたいに先生のことを追ってたんですけど、ずっとこの気持ちで一生胸が一杯だと思ってたんですけど、」
 高橋が微笑みながらそんな告白をしている。
「でも違う気持ちがあったって、全然違う愛があったって、マキリンに会ってわかりました」


 僕の横で、お母さんが俯いた。


「結婚を、許してください。マキリンをくださいとは言いません。僕を、オミ先生の家族に加えてください」


 お母さんが両手で顔を覆い、肩を震わせている。
 泣いているのか笑っているのかわからない。
 多分両方。

 僕の停止した思考はまだ再始動しない。


「和臣君。トモリンは本当に和臣君のことが好きなの。赤ちゃんができたって報告したらね、これでオミ先生の弟になれるって泣いたのよ」

 その真姫の言葉で、また新たに怒りがこみあげる。

「そうなんです!マキリンと僕に赤ちゃんができて、その上オミ先生とも家族になれるなんて、僕こんなに幸せでいいのかって信じられない気持ちです!」

 まだ思考停止中なのに頭の中でちりちりと怒りが弾けかかっている。次また下らないことを言ったら殴ろうと思った。案の定高橋は続けた。



「もっと信じられないのが、まだ全然形にもなってないようなこの子が、もう可愛くて、信じられないけどオミ先生よりも大事です」

 そんなことを言った。
 さらに続けた。

「正直に言えばマキリンと赤ちゃんが一番大事なので、先生に反対されるなら二人で駆け落ちするんですけど、できればオミ先生にもこの子見て欲しいです」



 高橋がそう言った。
 これはもう決定事項。二人の未来は二人で決めた。
 高橋がそう言っていた。
 二人で並んで僕をじっと見詰めている。
 頬を染めて目を潤ませて真剣な顔つきで。


 反対する理由なんて、ないのか。


 真姫は一緒に歩いて行く相手を見つけたのか。


 反対する理由なんてないんだ。



 思考停止中なのに、僕はそんな結論に辿り着いた。
 思考停止のまま返事をした方がいいと思った。きっとそれが正しいから。

 思考再始動したら絶対反対する。理由なんかなにもない。ただただ反対する。どんな相手でも渡さない。僕の娘は誰にも渡さない。絶対許さない。

 そんな予感があったから、僕は思考停止したまま頷いた。
 ほんの少し。一度だけ。
 ただ、この許可を見逃したら心置きなく反対してやろうと思った。人生最大のチャンスをみすみす見逃すような鈍重な男が真姫を幸せにできるはずがないからだ。
 でも残念ながら高橋はそれほど鈍重な男ではなかった。
 一秒足らずの短い首肯で僕が目を上げて二人を見る前に、高橋はありがとうございますと三回唱えていた。


「ありがとう!和臣君!絶対反対されると思った!トモリン殺されちゃうかもって思ってた!」
「僕も殺されるって思ってましたオミ先生!」
「絶対トモリンと幸せになるねっ!」
「絶対マキリンを幸せにしますっ!」


 二人に歓喜と感謝の言葉を浴びせられる。
 本来、嬉しかったり寂しかったり切なかったり様々な感情を持て余すはずなのに、僕はどうしても腕をさすってしまう。
 祝福の言葉を掛けたいけど今口を開くと投げやりな言葉になりそうだ。
 そんな僕の気持ちを代弁するように、果維が呟いた。




「……ていうか、トモリンとマキリンって呼び合ってるんだ?」




 誰もがそこに触れずに堪えていたのに。
 しかも誰もが全員耐えていることを知っていたのに。
 爆発のスリルに恐れながらもこのまま無事に終了しそうだなという予感に安心していたら、最後の最後で果維が地雷を踏んだ。

 暗黙の了解で全員耐えていた物を台無しにされ、そしてそのぎりぎりの連帯感を改めて確認して、全員で大爆笑した。



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